福岡の都心部にある日蓮宗寺院・香正寺 / 納骨堂・永代供養室・ペット霊園・エレベーター

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香正寺の歴史

香正寺は、福岡藩二代藩主・黒田忠之公、毛利・黒田家の姫、及び「上人橋通り」 ゆかりのお寺です

ここでは「香正寺の縁起」や「上人橋(しょうにんばし)通りの由来」等について解説しております。

「香正寺・開創 可観院日延上人(かかんいんにちえんしょうにん)

開山・可観院日延上人は、加藤清正 養父のもと、学徳優秀な僧侶として育つ。
上人、大本山・誕生寺・第十八世の折、徳川二代将軍秀忠の正室・お江の方(淀殿の妹)葬儀出座の席にて、「不受不施」の宗儀を堅持、将軍の命に背くこととなり九州へ下る。
福岡にて時の藩主・黒田忠之公の厚遇を得、その義姉・長光院殿の帰依により、立正安国並びに毛利・大友家供養発願のもと、当地に九千八百坪の寺地を賜る。
寺格も高く、五重塔等、多くの堂宇を有し、上級藩士の菩提寺として、寺門 大いに隆盛、今日に至る。


<注釈>
・「加藤清正」・・・安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後熊本藩初代藩主。


「香正寺・開基檀越(かいきだんのつ) 長光院殿(於佐手姫)」

香正寺には「お姫さまの墓」と云い伝える古いお墓があります。
法号は「長光院殿松月日浄大姉」
(ちょうこういんでんしょうげつにちじょうたいし)。
姫の名は於佐手(おさて)姫、
父方の祖父は毛利元就、母方の祖母は大友宗麟。
関ヶ原の戦いの時、父・小早川秀包は西軍・石田三成方に参加したため、
不在中の城を黒田如水の軍に攻め取られます。
その際 姫は、徳川家康との講和条件により黒田家に嫁ぎ、母や兄弟達を助けます。
戦後も黒田家に留まり、長政公の養女となって、
その家臣・吉田壱岐重成に嫁して、“八代殿御前”と敬われます。
晩年、香正寺開創・可観院日延上人に帰依し、
香正寺の開基檀越となります。


<注釈>
・開基檀越・・・寺の開基に当たり、物心両面から後援する信者のことを指す。

「上人橋通りの由来」

寛永年間、福岡城下と薬院村(現・警固一丁目)の間には小川があり、
これを渡らねば城下へ入ることは出来ませんでした。
香正寺開山の日延上人は囲碁に練達で、
かねがね藩主・黒田忠之公の相手を務めていました。
ある時、増水した川を渡れず、上人は登城の約束を果たせませんでした。
後日この事を耳にした忠之公は、早速上人の為、
紺屋町通りから直線に架橋せしめました。
これが上人橋であり、後の町の発展に大きく貢献しました。
昭和10年代、川は埋められ、現在の国体道路となります。
忠之公の揮毫である「上人橋」と刻まれた石の橋柱は、
香正寺庭園内に移設され、往時を偲ぶ縁(よすが)となっている。

「上人橋の由来」看板(国体道路側)